いつから七色じゃ足りなくなったの
081:七色の絵の具で夢を描いていたあの頃を、不意に思い出す
薄く視界がひらけていく。覚えのない高い天井と照明。体が沈み込んでいる寝床の感覚。剥き出しの皮膚をサラサラ滑るのは上等な布地だ。顔を横に向けると枕が柔らかい。ふんわりと頭部を包み込む。誰もいない。じわりと濡れてしみる耳元に指先をやる。濡れている。のそのそと体を起こした。膝の上にポツポツと温い滴が垂れた。鼻が詰っている。喉の奥が熱い鼻の奥が痺れる感覚には覚えがある。口元を引き結ぶと視界が明確に滲んだ。頬骨をかすめるように垂れる滴の熱さが体を灼いた。
乱暴に目元を拭うとアルヴィンは周りを見た。思考がふやけている。上着や靴はおろか下着さえも身に着けていない。裸身を毛布に包みながらアルヴィンは服を探した。部屋の隅に衣類かけがあってアルヴィンの服は装備ごとそこにかけてある。しかも部屋は結構な広さがあって裸身で寝床からはい出すには躊躇する程度に距離がある。手続きを踏んだ宿であればいいのだがここは記憶にない。何より旅仲間であるジュード達がいない。アルヴィン一人であれば宿のランクはかなり落とす。ここはどう見積もっても連泊が可能な料金の宿ではないし、人が集まる独特の騒がしさがない。個人宅かも知れなかった。だとすると余計に裸で寝ている理由が。
ばりばりと鳶色の髪を掻いて呆然としていると扉が開いた。一瞬背後を見たが続き部屋であるらしく廊下や往来の人々は見えなかった。ごみごみした空気もない。
「…ガイアス」
入ってきた人間にアルヴィンが少しびっくりした。勇猛な地位にふさわしいだけの体を薄い部屋着で惜しげも無く晒しているのはガイアスだ。肩へ届く黒髪を豊かに流し褐色に灼けた肌は猛々しい。紅い双眸は射抜く強さで睥睨するのに今のアルヴィンを見るのは子供のように無垢だ。いつもつけている装飾品もない。
「どうかしたか」
ガイアスは手に持っていた水差しからグラスへ水を注ぐ。とろりと透明なそれが反射して部屋を虚ろに仄白く照らす。
「別に」
ガイアスの口元がフフッと緩む。侮蔑ではないが明確に子供を見る目だ。
「別に、という顔ではないぞ」
グラスを持っている手が気安くアルヴィンを指す。アルヴィンがきょとんとするのをガイアスは微笑みで持って包む。
「泣いていた」
真っ赤になったアルヴィンが乱暴に目元を強くこすった。もう泣きつかれて眠ったり寝ながら泣いたりしない年頃だ。アルヴィンはもういつ泣いたのか覚えていない。こすりすぎて赤くなるのをさらにこする。ガイアスがグラスと水差しをおいてアルヴィンの手を抑える。
「赤くなってるぞ」
ガイアスの大きな手がアルヴィンの髪を梳く。額に一房垂らしているのを面白がるように揺らしてから離れていく。
「行為に疲れて眠っただけだ。うなされていたから人を呼ぼうかと思ったが泣いていたのでやめた」
気分が悪ければ言え、手当や心得のあるものを呼ぶ。ガイアスは言葉少なにそう言うと黙った。グラスの中を揺らめかせながら喉を潤している。
「あんたに関係ない」
震える喉から吐き出された言葉は明確に礼儀を欠いた。それでもアルヴィンはほとばしる言葉を止められなかった。罵詈雑言でさえない。言いがかりだ。判っていて、判っていたから、止まらなかった。
「あんたには判らねぇよ絶対に! 何かあったら人を呼ぶなんて、呼びつける人間はいいよな! 自分の都合で人呼んで、勝手に解決した気になってすっきりして、呼びつけられる側のことなんか考えてねぇしな!」
ガイアスの目が眇められた。子供っぽく安っぽい挑発だがガイアスは正面から受けている。斬りつける刃を、受け止めている。その気遣いがひどくアルヴィンの気をささくれ立たせた。
「言いがかりだって面してるぜ、そうだよな、そうだよ。自分はそうじゃないって口拭って全部忘れてあんたは高尚な政治の場に還るんだ。どうせ俺なんか行きずりと一緒だ、そんとき限りで切れが悪けりゃ色を付けるだけだよ。それでだめなら力ずく。あんたはそうやって何もかも見下して、自分は違うって言いてぇんだろ」
アルヴィンの口の端がつり上がる。眇めた紅褐色が痛々しく潤むことに気づけない。ガイアスは明確にアルヴィンの負う傷に気づいていてだからこそ沈黙を守っている。
「そういう態度がむかつくんだよ大ッ嫌いだ。俺はあんたなんか嫌いだしどうせあんたも俺のことなんかどうでもいいだろ? 男同士だもんな後腐れもないし! 関係を公表したところであんたは揺るがないし俺が馬鹿見るだけの話だよ。いいご身分だよどっしり構えて。…一度、揺らいでみろ。何もなくしたことないやつなんか俺は大ッ嫌いだむかつくんだよ!」
煌めいた飛沫が敷布や毛へ染みた。真正面からかぶった冷水にアルヴィンの言いがかりが止まる。ガイアスはぽたぽたと雫を垂らすグラスをアルヴィンの方に向けたまま微動だにしない。紅い双眸が体を灼きつくす怒りに燃えていた。アルヴィンが怯む。眇められた紅玉もひそめられた眉さえも雄々しく猛々しく怒りに燃えて、静かなガイアスの声は憤怒に吼えた。
「それ以上何か言ったら――殺すぞ」
本気だ。アルヴィンがゾッとした。背筋を奔る震えさえも露見したら殺されそうに恐ろしい。ガイアスは最高位にいて、それはつまりそこにたどり着くまでに人を蹴落としてきたという証明だ。生まれながらにそうであったという話はあまり聞かない。ガイアスはのし上がってきたのだ。そんな人間が人を貶す方法を知らないわけもない。綺麗なままでいられないのはだれでもそうだ。ガイアスが台頭した分、踏みつけにしたり押さえ込んだり必要があれば殺したりしてきたのだろう。社会的に、立場的に人を殺してきた重みがガイアスの睥睨にはこもっている。アルヴィンはハンと不遜に鼻を鳴らした。一歩でも退いたら抑えこまれる。虚勢であっても虚構であってもアルヴィンに取れる手段はすでに無い。唇を噛み締めて耐えるのをガイアスは黙って見ていた。永遠に近い時が流れた。
ふ、とガイアスが笑んだ。それはどこか達観したような失望に慣れた笑みだった。…あの少年なら。は? あのジュードという少年であればこういう時、お前に、臆することはないというのだろうかと、思った。若いというのはそれだけで要因だな。判らねぇよ。ガイアスが戸惑ったように目元を和ませる。
「お前に気にすることもなく、今までのお前は間違っていないと言えたら良いと思っただけだ」
瞬間、アルヴィンの体を貫いたのは本物の羞恥だ。ガイアスはアルヴィンが被ることを考えた上で沈黙や言葉を選んでいた。それらを一切合切無視してアルヴィンが悪態をついて同情を引いただけだ。子供でもこんなことはしない。引き結んだ口元に頬が熱く燃えていくのが判る。見開かれた紅褐色が集束する。どうした。うるせぇ。押し黙るアルヴィンを尊重するようにガイアスも口を閉じた。
重たい沈黙に負けたのはアルヴィンだった。
「なんで泣いてるのほうっといたんだよ、人でも呼べよ」
無茶な言いがかりなのだがガイアスはきょとんとしてから考えこみ、困ったように笑んだ。
「お前の寝顔が可愛かったから」
「馬鹿じゃねぇの?!」
目を白黒させるアルヴィンをガイアスは見ていた。これでも為政者であるから一般市民とは一線を画しているのかも知れなかった。ガイアスが市民になることは、たぶん無い。
「アルヴィン」
ガイアスの声が冷徹だ。アルヴィンがびくっと震えてガイアスを見た。紅い瞳が静かに燃える。ジュードの琥珀が年齢的なバタつきの割に落ち着いていることを思うと、ガイアスの紅い双眸は落ち着いているようでまだ暴れているフシがある。ガイアスはまだ、アルヴィンがなくした何かを持っているのかも知れなかった。それが痛かった。何かを持つということも、何かを持たないということも、場合によっては人を傷つける。それは至らなさであったり敏すぎるそれであったりする。
「お前の話は、聞いている。…派手にやっているようだな」
ガイアスから慕情が消えた。それは明確で変わらぬ言葉尻が余計に際立たせた。アルヴィンの思考が冷える。ひゅうと伸びた腕に対処できなかったのはアルヴィンがまだガイアスの甘さを信じていたからかも知れなかった。枕を突き破らんとする勢いで頭部が固定される。口元を覆うそれは頤をガッチリと抑えこむ。
「赦すな。他者の侵略も己の甘ささえも。…お前を犯していいのは、俺だけだ!」
アルヴィンの体が震えた。絶対を主張する圧力には覚えがある。逆らうな、お前などいつでも殺せる。襲撃に震えるアルヴィンを叩きのめしたのは襲撃者ではなくその言葉だった。事実として襲撃がそれを裏打ちした。アルヴィンは薄幸の少年ではなく明確なコマに成り下がった。
「――ぁあ。ああぁぁあぁぁああああああ!」
アルヴィンの爪がガイアスの頬を引っ掻き腕の肉をえぐる。歯が手加減なくガイアスの手に噛み付き血があふれた。口の中にあふれる鉄錆さえ吐き出してアルヴィンはガイアスを抉る。何も見えなかった。何も聞こえなかった。ただ一人である、と。孤独。恐ろしいほどに口を開けた暗渠がアルヴィンを呑み込みつつある。足元はおろか上下さえ危ういそれは明確な恐怖だった。
「チッ…」
ガイアスの珍しい舌打ちさえアルヴィンには聞こえない。むちゃくちゃにガイアスを傷つけるアルヴィンの四肢は自分の側の被害さえ顧みない。骨折や捻挫を厭わない、制御をなくした暴力は自身さえ傷つける。ガイアスが覆いかぶさるとアルヴィンの唇を奪った。そのまま舌が絡む。噛み千切ろうとするアルヴィンは自身を絡めとる動きと降伏する熱にたじろいだ。ガイアスの熱はアルヴィンを押さえ込んだ。次第に四肢の動きが鈍る。
「…っふ…ぁ、ん…」
うごめく舌先がアルヴィンの動きを制限する。息つく暇さえなくて喘ぐ喉にガイアスは噛み付く。
「は、ふ…」
アルヴィンが目を閉じる。視界が黒く染まるとガイアスの熱が包み込むようだ。触れてくる手のひらの熱さや吸い上げる舌の激しさに乱される。
泣きだしたかった。ガイアスはどこまでも優しくして、しかもアルヴィンの意志さえ省みる。アルヴィンが嫌だとはねつければ潔く退くだろう。触れてくる唇も舌も手も何もかもが、アルヴィンを見ている。アルヴィンの経緯を知りながら利用するでも蔑むでもなく、アルヴィンを、見ている。アルヴィンの境界はあっという間に融けた。ガイアスの情報を貪欲に吸収しながらガイアスの側への侵入を試みる。
「がいあす」
涙でふやけたアルヴィンにガイアスはこれ以上ないほど優しく甘いキスをした。伸ばされる手を取る。アルヴィンの爪が食い込むことさえガイアスは問題視しない。
「大丈夫だ、俺はここに、いる」
ガイアスの黒髪をちぎる勢いで掴む手を幼子のそれのように優しく流す。涙で潤みきった紅褐色を愛おしげに眺め、アルヴィンの望む言葉を口にする。しかもそれは取り繕いではなく明確にガイアスの意志だった。
「アルヴィン…」
紅く燃える舌がアルヴィンの涎さえ舐めとる。抑える頤を丹念に舐め拭う。そのまま唇が重なった。
「お前は…俺の虹の根本だな」
「にじ?」
ガイアスは楽しげに笑んだ。
「虹の根本と書いて夢追人と意する言語があるそうだ」
アルヴィンのとろけた思考では収束しない。ガイアスが何を言いたいのかさえ虚ろだ。ガイアスはそれさえ判っているように、自らを嗤うように言葉を紡ぐ。
「俺は夢を見たいのかもしれん。夢が、どこかにあるのだと、思いたいのかもしれない」
泣き出しそうな深紅の双眸にアルヴィンはキスをした。溢れてくるかもしれない涙を止めたかったのか、それとも違う何かがあったのかさえ曖昧だ。ただアルヴィンはそうしたいと思ったのだ。紅い瞳が収束して、潤むように膨張するのをアルヴィンは愛しむように見ていた。
「アルヴィン、お前、ここでもう一泊する気はあるか」
「へ?」
「お前を抱きたくなった」
「ン、ァッ、あ…――」
「応える、な」
弄るガイアスの指先がアルヴィンを追い詰める。言葉は意味をなさず燃えると息と水音が全てだ。アルヴィンは身震いするのをガイアスは愛しいと言わんばかりに熱く見つめる。やっぱりお前は可愛い。俺が、可愛い? そうだ、お前が、お前が可愛いんだよ。利用価値じゃなくて。利用価値? そんなものはどうでもいいし、俺にはお前が愛しいからそれが利用価値かも知れないが。俺はうい奴を手段として利用するつもりはないが。そもそも自分の価値観が傾いているものを利用したらそれはそこにつけこめと言っているようなものだな。…そういうもん、なんだ。拗ねているのか。違う。
褐色の肌が広がる。気づいた時には額にキスされていた。押さえ込みながらガイアスはアルヴィンの意志を尊重してくれる。子供相手のそれに憤りながらどこかで安堵している自分がいる。
「俺はガキじゃない」
「俺から見ればガキだが」
うぐぅ、と黙るアルヴィンにガイアスは再度優しくちづけた。
「大丈夫だ、十分可愛い」
キリッとして言うガイアスのセリフにアルヴィンが毒づく。
「ツラ考えて物言え」
「本音だ」
「性質悪いなおい!」
微笑むガイアスが楽しげでアルヴィンはそれ以上言えなくなる。じりじり黙っているのをガイアスはポンポンと鳶色の髪を叩いていとしげだ。アルヴィンの鳶色の髪を梳きながら頤や額を撫でる。
「好きだ」
アルヴィンが毛布をかぶって背を向けた。顔が燃えるように熱かった。涙で潤んだ紅褐色の目はすでにガイアスを直視できなくて、それでも優しく撫でてくれるガイアスの手のぬくもりにアルヴィンは身を任せた。
夢だと思った
夢であって欲しい気がした
いつか覚めると、しても
夢であればアルヴィンはガイアスに、俺も好きだと言える気がした
《了》